「ま、いつものことだが、法事っていうのは疲れるよな」
七月の雨はとてもしつこく長かった。
ようやく法事の用事を全て済ませた私と妹の里美はすっかりクタクタだ。
「そうだね、早くウチまで帰りたいね」
40歳を過ぎた里美は6つ歳下の妹だが、いまだに兄の私に何もかも任せきり。
当然のことながら法事のことも全て私に任せきりだ。
あげくの果てには、出戻りで実家で暮らすのは嫌だからと、独身の私の家に転がりこんできている始末である。
「ねぇ、ところでさ、私の戒名って何になるのかな?」
「え?戒名だって??里美は女だから釋尼〇〇(しゃくにまるまる)みたいな名前になると思うよ。丸々の2文字に里美の里か美を使って、あとの一文字は香(こう)とか妙(みょう)とか華(げ)とかをつけるのさ」
「釋尼里香(しゃくにさとこう)?釋尼里華(しゃくにさとげ)?」
「そのときにならなきゃ、わからんさ」
「ふーん」
「さ、帰るぞ」
車のキースイッチを押してドアの開く音が鳴ると里美は助手席へ乗った。
私はこれから運転だが、月曜までにまとめたい資料があるので日が昇りきる前にはどうしても帰宅したいのだ。
朝方だったが里美は眠たげな様子もなく、早く帰ろうと言わんばかりに素早くシートベルトを付け終えていた。
「ようやく雨もやんだか…」
「運転疲れたら言ってね、代わるから」
しつこかった雨もようやく止んでいた。辺りはまだびしょ濡れで路面も濡れていたが、ワイパー無しで帰れるのは幾分気持ちが楽だ。
車を走らせてまもなくのこと、すぐに高速道路へと乗った。
実家へ向かうときは有料料金を節約して下道で向かうのだが、自宅へ帰るときは高速道路に乗って帰るのだ。
帰路は楽して帰るのがいつものお約束なのだ。
「高速はお兄ちゃん運転してよ。高速は私無理だから。地元ならまかせて」
里美は高速道路を運転するのが苦手だ。疲れた私を気使ってどこかで運転を代わってくれようとしているようだが、高速道路は運転したくはないらしい。
それに、特に眠気もないのでそもそも里美に運転を代わってもらおうとは思っていない。
サービスエリアは途中に何か所かあるが、どこにもよらずに真っすぐウチへ帰るつもりだ。
雨上がりの高速道路、急いでいた気持ちがあったことは認めるが、いつもと変わらず落ち着いて運転していた。
高速道路を降りてすぐには普段よく利用しているコンビニが見えたが、2人とも真っすぐ帰ろうという気持ちは一致していたようで、無言でコンビニを通りすぎた。
私は法定速度を守るタイプの人間で、必要以上に速度を出して運転したりはしない。
それでも事故というものは起きてしまうものなのかもしれない。
濡れた路面でスリップした私達の車は何かにガツンとぶつかり、大きく跳ね上がって中を舞った。
「うぅ…」
車が事故を起こしてどれほどの時間が経過したのかはわからない。
気が付くと私達の目の前には事故でぐちゃぐちゃになった車が1台、電柱にめり込むような形で止まっている。
粉々になった車のパーツや割れたガラスの破片が飛び散っている。
自分達以外の車も巻き込んでしまったのか?
そう思ったが、直後、おかしなことに気が付いた。
事故した車がずいぶん下のほうに見えていたのである。
ふと、里美のほうに目をやった瞬間気が付いた。
車が下にあるのではない…。私と里美が10メートルくらい上から自分達の車を見下ろしていたのである。
車は激しく破損していて、電柱にめり込む形で止まっているが、間違いなく私の車だ。
運転席と助手席のちょうど真ん中あたりにめり込んだ電柱は、事故の激しさを物語っていた。
あたりは真っ暗で誰一人おらず、他に車の通る気配もない。
闇は深く、そして静寂だった。
雨上がりの上空はひんやりと冷たく、風は無く、そして音も無かった。
私は車の中の様子を見ようと目を凝らしたが、車の後方、上空10メートルの位置から中の様子を伺うことはできなかった。
私達はただただ茫然と、上空から車の様子を眺めているだけだった。
二人の周りには何もなく、闇のなかに上半身だけが浮かんでいた。
目の前には悲惨な事故現場の様子だけがくっきりと浮かび上がっていた。
どのくらいの時間が経過したかわからないが、突然里美が言った。
「お兄ちゃんは戻りなよ…」
その声を聴いた直後、瞬きと共に目覚めた私は運転席の中で横たわっていた。
先ほど里美と上空から眺めていたとおり、運転席と助手席のちょうど真ん中あたりで電柱がめり込んでいた。
里美の額が私の左肩にもたれかかっており、表情を確認できなかったが息をひきとる寸前だった。
里美の最後の呼吸が左肩越しにゆっくりと伝わり、里美は息をしなくなった。
「さ、里美…」
なにもできず横たわったまましばらくすると、大きな音と共に救急車が来た。
速やかにバイタルサインのチェックが開始された。
救急隊員は潰れた車のドア越しに大きな声で呼びかけてきた。
私は微かだが返事を返した。里美から返事はない。
呼吸もなくピクリとも動かない里美の頭は、私の左肩の上に置かれたまま、石のように重く、そして冷たかった。
助手席側のドアをこじ開けた救急隊員が里美の様子を伺う。
「妹は…。妹はもう死んでいます!」
私は叫んだ。
私は救急車に移されるときにはじめて全身に激しい痛みを感じ、朦朧とする意識のまま、救急搬送されたのだった。
8か月と2週間後、私は退院した。
一命をとりとめて後遺症なく退院する私を、病院の方々は「奇跡」と言って励ましてくれた。
里美は電柱に頭をぶつけ即死だった。
私は里美と共に確かに上空にいた。
湿った雨上がりの匂い、濡れて光る路面、上空の冷たさ、そして里美の声。
鮮明な感覚とともに記憶に刻まれ、同時に自分の身体から離れてしまったことを示していた。
のちに警察官から聞いた事故現場の様子は、上空で見下ろしていた光景と完全に一致していた。
あのとき私が見たもの、感じたものは幻ではない。魂には五感の全てが備わっている。
私と里美は、肉体の外に、確かに存在していた。
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