夏の海風と記憶釣り(23:8月20日)

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23:8月20日

ネクタイピンを手に取った拓真はゆっくりとあの日の出来事を語り始めた。

――18年前の8月20日の出来事だった。

家族は海を訪れていた。父が操縦するマリンレジャーの船には妻と息子と娘、四人が乗っていた。

その日は決して危険な日ではなかった。

多少の波のウネリはあったがレジャーを中止するほどではなかった。

「ねぇ、どう?似合う?」

娘はターコイズのペンダントを首にあてがうとニコニコしながら母親に見せた。

「ええ、とっても似合うわ。それ、私がこの指輪とセットでずっと大事にしてたんだから大切にしなさいよ」

母親は娘に言った。

「わかってる」そう言ってルンルン気分の娘はペンダントを見て微笑んだ。

「せっかくもらったんだから首からぶら下げてればいいじゃん」

兄にそう言われたが「これは、ケースにしまっておくのー」と大切そうにペンダントケースへとしまった。

母も娘と同じく、指輪をケースへとしまった。

二人は写真を撮るときのためにアクセサリーを持ってきていたが、レジャーで失くしたりキズつけたりすることを懸念して大切にケースへと戻した。

「なぁ、こっちも見てよ。へへっ、いいだろう?」

兄は銀のブレスレットを妹に自慢すると、それを左手首にはめた。

「夏休みのウチに海にこれて良かったな!」

兄は海に来て喜んでいた妹に共感した。

「わぁ、海サイコー、風、気持ちいいー」

船のデッキから海を眺めて娘が言った。

「最高だろっ!?お前たちを船に乗せるために免許を取ったんだから!」

父は娘を海に連れて来られたことを誇らしく思った。

海は、どこまでも穏やかに見えた。

水平線の向こうでは陽光が白く跳ね、舵を握る父の頬にも潮風が心地よく吹き抜けていた。

妻はデッキの端で、双眼鏡をのぞきながら「ねぇ、もしかしてイルカとか見えたりしないかしら?」と声を弾ませる。

娘と息子は笑いながら波しぶきを浴びていた。

――あの瞬間までは、誰も不安など抱いていなかった。

沖へと少し進んだ頃、海の色が急に深く変わった。先ほどまで青く透き通っていた水面が、どこか重たく鈍い。

父が眉をひそめた時だった。

遠くから、低くうなるような風の音が近づいてくる。

刹那、突風が船を煽り、船体が大きく傾いた。

子どもたちの笑い声が途切れ、船底を打つ波の音だけが鋭く響く。父は必死に舵を戻そうとしたが、次の瞬間、正面から押し寄せた波は船を持ち上げた。

海面がのけぞったように斜めに傾く。

太陽が視界の端で揺れ、世界が揺らぐ。

「つかまれ!」

父は大きな声で叫んだが、風と水しぶきにかき消された。

重力の向きがわからないまま、船は垂直に跳ね上げられ、あたりの物は容赦なく海に叩きつけられた。

その中にあった一つ、銀色のブレスレットは、鈍く光って音も無く海に吸い込まれていった。

白い泡と水飛沫が視界を覆い、冷たい海水が全身にまとわりつく。

息を吸う暇もなく、上下の感覚を失った。

ただ耳の奥で、鼓動が遠くに混じる。

「きゃあっ!」

あっと言うまの出来事だった。

船尾は海水に飲まれ船体は姿勢を維持できず垂直になった。娘は船から海に投げ出されてしまった。

そのときだった。

漁を終えた一艘の船が沈みかけている船に気がついた。

「マズイ!海に投げ出されている!」

漁師の男はすぐさま現場に駆けつけた。

漁師は長年の経験で、事態を一瞬で理解していた。

救命用の浮き輪を海に投げ入れた。しかし、娘は浮き輪に捕まることはできなかった。

「ダメ、私泳げない…」

娘はあたりを見たが誰も見えない。

船はすでに沈みかけていた。

兄は漁師が投げ込んでくれた救命浮き輪に捕まり、それを妹へ渡そうとした。

「くそっ!届かない!」兄は波のウネリに飲まれ姿を消してしまった。

娘の視線の先には海に投げ出された母が見えた。

娘と母は一瞬だけ目が合った。

「ママ、ごめん、私沈んじゃう…」

娘は一瞬のウチに大量の海水を飲み込んでしまい、仰向けの姿勢で海の中へと沈んでいった。

「マズイ、沈んでいる!」

漁師は娘を引き上げるために自分の体にロープを連結すると海へと飛び込んだ。

漁師が飛び込み、娘を救助しに行く。

その俊敏な動きよりもわずかに早く、母は動き出していた。

「ダメ、あの子は泳げない…」

しかし、リゾートワンピースが身体にまとわりついてまともに泳げない。

母は裸眼のまま海中の娘を目で追ったがすでに自分の足元よりも低く横たわっていた。

決死の思いで母は娘を引き上げようと海へ潜った。

大きく投げ出されて水面に叩きつけられてしまった父は、瞬間的に気を失っていたが、沈んで船頭だけを水面に浮かせている自分の船を見て、事の重大さを一瞬で理解し戦慄した。

父の胸に、冷たい恐怖が広がった。

急いで家族の元へ駆けつける。妻も息子も娘も、水面より上に確認することができない。

父はウネる波の中、海中に家族の姿を探した。

母はあとほんの数十センチ手を伸ばせば娘に手が届くところまで潜ったが、娘の沈みゆくスピードは母の潜水よりも僅かに早かった。

娘との距離は広がり、なんとか追いつこうと深く深く潜り進むが、母の努力は実らなかった。

すでに呼吸は限界で自分もダメだと諦めたその瞬間、服を引っ張られる。

漁師は母親のワンピースの裾を掴んだ。

「女の子は!?ダメだ…。間に合わない…」

漁師は母だけでも引き上げようと決死の思いだった。ワンピースの裾を絶対に離すまいと力いっぱい握りながらロープを手繰り寄せた。

父は海の奥底の娘の姿に気づき、その上に漁師と妻の姿を確認した。

娘も妻も揺蕩うだけですでに意識を失っている。漁師だけが海面に上がろうともがいている。

自分も急いでその場に向かった。

暗い海の中、漁師は妻を抱えながら必死にロープを手繰り寄せていた。しかし、ロープの先には何も繋がれていなかった…。

事故を起こした船と漁師の船との間に挟まれたロープは、激しい衝撃で漁師が飛び込んだあと僅か数秒で無惨にも千切れていたのだ。

父は海の中の光景に絶望した。ロープとワンピースに絡め取られた漁師と妻、奥のほうへと沈んでいく娘の姿…。

父の肺は海水で満たされ呼吸はできなかった。

自分のほんの数メートル先で、漁師の動きが止まってしまったのが見えた。ただただ沈みゆく家族の姿を目の前に、次第に意識は薄れていった。

海の中は宇宙のように真っ黒で、そして無慈悲だった。

父もまた海面まで上がる力は残されていなかった。

ーー 2008年当時、ライフジャケットの着用は努力義務で、マリンレジャーを楽しむ多くの人々がライフジャケットの存在を軽視していた。また、漁師も作業性の悪さからライフジャケットを嫌い、身につける者は全体の一割にしかすぎなかったという。

その場にいた誰一人としてライフジャケットを身につけている者はいなかった。

著者コメント

全26章あります。コメント残していただけるととても励みになります。

是非、楽しんでいってもらえたらと思います。

応援よろしくお願いします。

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